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最高裁判所第三小法廷 昭和37年(オ)306号 判決

上告人

甲田義男

右訴訟代理人

石川秀敏

被上告人

豊島通

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人石川秀敏の上告理由第一点、第二点について。

原判決ならびにその是認して引用する第一審判決が確定した事実関係のもとにおいては、上告人は、本件狂犬病予防接種施行に際して医師として遵守すべき注意義務を欠いたものというべきであり、その施行の結果発生した後麻痺症のため被上告人が被つた損害を賠償する責任を免れないものと認めるのが相当である。されば、所論原判示は肯認すべきであり、これと異なる見解に立脚する論旨は採用できない。

同第三点について。

所論は、原判示と相容れない事実を前提として、事実審の専権に属する証拠の取捨判断(その心証を生じた理由まで説示する要はない。)および事実の認定を非難するに帰するから、採るを得ない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。(裁判長裁判官田中二郎 裁判官石坂修一 五鬼上堅磐 横田正俊 柏原語六)

上告代理人石川秀敏の上告理由

第一点 原審判決によつて引用された第一審判決認定による本件事案の要旨は被上告人(昭和一四年六月二日生)が昭和二七年六月五日午後五時頃自宅附近の訴外片野郁三方門前において同人飼育のセパード犬に右脚部を咬みつかれたので同日上告人の診察を受けた結果狂犬病予防接種を受けることとなり、翌六日より同月十九日まで毎月連続して一四回に亘り北里研究所製造にかかる人体用狂犬病予防ワクチンの注射を受けたところ右予防接種完了後の同年六月二六日頃登校中(当時上告人は市川市内の中学校一年生在学中)気分が悪くなり爾来引続き同年七月一七日まで自宅において上告人の診察治療を受けたが容態は悪化する一方で遂に重態に陥つたので同京成病院に院させたが七月二五日狂犬病予防接種後麻痺症に対する治療を受けた結果、漸く病状も快方に向い同年九月一日退院しやがて通学できるようになつたが発病によつて知能上の欠陥を生じ右欠陥は将来まで遺るかも知れないと謂うのである。

而して右判決は進んで上告人が右予防注射を開始したこと及びその施行について並びに後麻痺症発生後の治療について医師としての過失があつたかどうかを判断するに際し狂犬病の発生とその予防接種並び予防接種後麻痺症との相関関係に関する医学界の現状と所見を論じその結果犬に咬まれた際予防接種を開始するや否やにつき咬んだ犬に狂犬の疑があるかどうかは極めて重要な問題となるとして、咬んだ犬に狂犬の疑があるかどうかは(1)咬んだ時から遡つて六ケ月以内に犬に狂犬病防注射がしてあるかどうか、(2)犬が飼犬であつても野放しにしてあるか繋留してあるかどうか、最近犬の挙動に変調があるかどうか、(3)附近に最近に狂犬病の発生をみたかどうか、(この場合大体三キロ以内、三ケ月以内を以て一応の標準とすること)を調べることにより判断されると断じ、尚一旦予防接種を開始した以上途中で中止しても後麻痺症が起らないことは断言できないと共に途中で中止したことにより続行したならば発生したであろう後麻痺を発生せしめないともいえないから途中犬に狂犬の疑が薄れた時は直ちに注射を中止すべきもので医師たるものは、犬に咬傷を受けたからといつて無闇に予防注射をなすべきではなく飼犬の場合は前記乃至に揚げたような調査をなし、狂犬たるの疑の有無、濃淡により夫々適当の処置をなすべく、右疑が薄いと判断せられる場合には直ちに予防接種を開始すべきではなく、暫く犬の様子を観察(被害者の家人を通じてなす等の方法により)するの処置に出ずべき注意義務があると結んでいる。

然しながら疑いが薄い場合には咬犬を観察しその間暫らく注射を差控える義務があるというのは治療医学の実際を無視した暴論であつて医師としては疑いが絶無というのでなければ注射を控えるべきではないし更に原郁判示の注意義務は結果において医師に無過失責任を負わせることともなる。そもそも民法第七百九条に定める過失の前提となる注意義務はこの義務を怠れば過失責任を問われ不法行為の責任を追求される法律上の義務であるから漠然と疑いが薄いとか適当の処置をなすといつたような抽象的概念が果して許されるべきものであろうか。例えば良心的且つ客観的調査により疑が濃いと判断して予防接種を施行したところ万に一つのパーセンテージによつて後麻痺症が遺つたとか疑が薄いと判断して予防接種を控えたところ不幸にして狂犬病が発したような場合を考えて見るに、病気が発生すればすべて医師の判断が悪かつた処置が適当でなかつたとされ必ず医師に過失があつたとして不法行為の責任を問われることになつて結果において無過失責任を負わせると毫も異るところがないのである。自動車所有の無過失責任についてはそれに相当する理由がありその旨の立法があつて然るのであるが過失主義を一歩も出ない医師の責任については自ら趣きを異にし、これに無過失責任を負わせるような注意義務を定めるが如きは厳に之を戒めなければならない。犬に咬まれた場合その犬が狂犬病に罹つていたとすれば予防接種を即座に開始しない限り必ず狂犬病に罹り殆んど例外なしに死亡する結果となる。疑が薄いというのは疑が絶無な場合と異りその何パーセントかは疑が事実となつて現われる場合を意味する。この何パーセントかは医師が注射の開始を躊躇したために不幸な犠牲とならざるを得ないのであるがその結果が出れば薄いという判断に過失があつたといつて医師を責め、これと反対の場合疑が濃いとして予防接種を施行し万に一つの後麻痺症が発生すれば未然に避けられた狂犬病の発生などは全然度外に置いて濃いと判断して予防注射を施行したことに過失があるとして医師を責めることとなり医師に難きを求めて無過失責任を負わせる結果となること明かである。

犬に咬まれた急患を来診した場合能うる限りの手段を尽して狂犬であるかどうかを調査しても狂犬でないという確信を持てなかつたならば狂犬病罹病の危険を虞つて後麻痺症発生の万に一つの危険を意識しながらも予防接種を断行することは医師の良心であつて過失ではない。

しかも本件にあつては昭和二七年度は六月迄の間に千葉県においては野田市および千葉市において各一名の狂犬病の発生をみ、市川の隣接地区である東京都江戸川区小松川に二名の狂犬病の発生をみ、千葉県においては狂犬病非常対策をたて、県告示その他の方法を以て県民に警告を発していたような状態にあつたことおよび訴外片野郁三飼育の犬が被上告人に咬傷を与えた当時の状況から考えてこの犬が狂犬ではないかと疑わしめるに足る状況が濃厚であつたことは第一審判決もこれを認めるところでその上事故発生前六ケ月の間に予防注射はしたと口頭のみの説明で注射を完了するまで証明書の呈示確認がなされない以上上告人が医師として注射を開始続行することは極めて当然と謂うべく医師としての注意義務に何ら欠くるところがないのである。

之を要するに原審判決は過失の前提たる注意義務の解釈を誤り判決に影響を及ぼすこと明かな法令の違背あつたことに該当するから到底破毀を免れない。

第二点 原審判決の引用する第一審判決はその理由において昭和二七年度は六月頃までの間に千葉県においては野田市および千葉市において各一名の狂犬病の発生をみ、東京野において江戸川区小松川に二名の狂犬病の発生をみ(狂犬は野田市一頭、千葉市三頭、小松川二頭発生)、千葉県においては同年四月十一日県告示をもつて四月一日より九月三〇日まで千葉県一円における犬の移動、移出入及集会施設等を禁止せられ、同年一〇月三〇日には千葉県衛生部長より県内各保険所長に宛て狂犬病予防特別対策実施の指示が出た程であつたこと、訴外片野郁三飼育の犬が原告に咬傷を与えたときの模様は、被上告人が片野方の前を通りかかつたところ近所の子供が泣いているのに出会つたので「どうしたのだ」と聞いていたところへ突然片野方邸内から飛び出して来て被上告人を咬んだものであることが認められるから狂犬ではないかと疑い得ないこともないと認定しながら一転して(1)片野の飼育する犬は前年の十二月中にも近所の女中の腕に咬みついたことがあり、その際獣医の診察を受けたところ狂犬でないことが判明した、(2)昭和二十七年一月十八日に予防注射を施行済であつた、(3)被上告人に咬傷を与えた六月五日に訴外片野ミヨシは被上告人の母豊島マサコに対し犬には予防注射がしてあるから狂犬の心配は多分ないと思う旨を伝えた、(4)上告人は犬の予防注射施行済の証明書を呈示されなかつたけれど、六月五日被上告人を診察した際被上告人母より、また翌六月六日には片野の妻ミヨシよりそれぞれ予防注射済なので多分狂犬でない旨を伝えられていた、(5)上告人の家と片野方とは近隣であるばかりでなく、前記のように片野の近所の女中がこの犬に咬まれた際にも上告人は被害者を診察してこれに狂犬病の予防注射をなし、この犬に対しては予備知識を有していた筈であつた、(6)市川市においては、昭和二七年中狂犬の発生はなかつたとの六つの理由を挙げてこのことから上告人が被上告人に対する予防注射を開始した六月六日当時の加害犬に対する資料によればこの犬が狂犬であることの疑は殆んどなかつたと判示し原審判決も特にこの点を強調し被上告人に咬傷を与えた犬は、当時第一審判決の認定したような事情があつて狂犬の疑はほとんどなかつたものと認められ従つてその疑あるものと判断すべき事情にはなかつたものというべきだとしている。

しかしながら前年十二月に狂犬でなかつたから翌年の六月当時狂犬病に罹つていなかつたなどということは前述のような狂犬病非常対策をすらたてざるを得なかつた程の地域環境においては常識的にも肯けないことであるし、昭和二七年一月二八日に予防注射施行済だつたということは注射完了後に判つたことで注射開始当時には証明書の呈示もなく話にも聞いていなかつたのである。仮にそんな話があつたとしても注射済証の呈示がなければ曩に述べたような狂犬病と予防注射との相関関係からいつて医師としては一応狂犬の疑絶無にあらずとして注射を開始して注射済証の呈示を待つのが極めて良心的な措置と謂うべきであろう。また昭和二十七年中市川市に狂犬病の発生事実がなかつたから加害犬が狂犬であることの疑は殆んどなかつたと認定する資料とするに至つては条理からいつても経験則からいつても到底首肯し得ないところである。

原判決は極めて客観的に隣接地区の狂犬発生状況を考慮に入れ加害犬が被上告人に咬みついた状況から判断して狂犬の疑があつたと判断しながら右のように常識からいつても条理から推しても何等首肯するに値しない些末の理由を挙げて狂犬の疑は殆んどなかつたと断定している次第でその独断による決論を正当化せんがため客観的価値ある理由を強いて抹殺するの誤りを侵したもので明かに理由に齟齬ある場合に該当するから原審判決はこの点から謂つても当然破毀さるべきものである。

第三点 被上告人は昭和二七年六月五日に咬傷を受け翌六日から同月十九日まで上告人より毎日連続して十四日間に亘り北里研究所の製造にかかる狂犬病予防ワクチンの注射を受け右予防接種が完了して一週間も経過した同年六月二六日頃登校中気分が悪くなり爾後高熱が続いて容態が悪化したとのことであるが上告人が注射継続中の十四日間は極めて元気で被上告人またはその親からは被上告人の健康状態について何等異状の訴はなかつたし、上告人の指示によつて注射を行つた看護婦からも何等異状の報告を受けなかつたばかりでなく注射開始後十一日目の六月十六日に上告人が自転に乗つた被上告人と道路上で会つた際も上告人の問診に対し「平ちやらだよ」と答えた程で平常通り通学も差支えなく行われていたのであるから予防接種は何等の支障も影響もなく完了したと見られるので、完了後一週間も経過してからの急激な発熱は何か他の疾病の発熱を疑わしめるに十分なものであつて上告人は可能な限り綿密な検査と診察を尽して漿液性脳膜炎か夏期脳炎かいずれにしても脳脊髄膜に関係した病気と診断しこれが措置を講じていたところ狂犬病のことのみを専門に研究している伝染病研究所の大谷医師が被上告人の親からの訴のみを聞いて診察した結果狂犬病予防接種後麻痺症と診断したものであるところ第一審並原審証人島本多喜雄は被上告人の場合は脳脊髄膜炎の症状であつたがその原因が結核によるものか化膿菌ないしは毒物によるものか狂犬病の予防ワクチンによるのか又はウイルスその他の原因によるのか不明であつて予防接種後麻痺だとは断定できない、十三歳位の年少者は後麻痺症の起る可能性は少く他の脳炎の起る可能性が多いと証言し第一審鑑定人武藤の鑑定書にも年少者については後麻痺症の発生は極めて低く我々が文献的に知り得た範囲では十三歳以下の子供の後麻痺はなかつたと言えると結論し尚後麻痺症の脳炎型とその他の脳炎との鑑別は一般的には容易でないと謂い更に被上告人を後麻痺症と診断した大谷医師も診断は絶対でなく可能性が濃いというだけで狂犬病の予防接種をして一定の時期のたつた後に原因不明の脳脊髄炎を起こすということは考えられ原因不明の脳炎症状と接種後麻痺症との区別はつけられない旨を供述し更に十四歳以下の子供には後麻痺症はおこらずむしろ日本脳炎の方が起りやすいと思うと証言している。

して見れば当時十三歳であつた被上告人には狂犬病予防接種後麻痺症の発生する可能性は極めて薄く可能性の濃度の問題からいえばむしろ後麻痺症にあらずと診断さるべきではなかつたろうか。大谷医師の診断にはその職歴診察時前後の状況から多少の先入主が避けられなかつたかも知れないし、ただ大谷医師、美甘医師の診断がそうだつたというだけの理由で漫然後痺症だと認定し何故に島本証言並宗鑑定を排斥したか又如何なる理由によつて後麻痺症と断定したかにつき何らの説示をなさない原判決は上告人のなした予防接種と被上告人の発病との間に誤つて因果関係ありと認定ししかもこれを肯認するに足る根拠については何等の説明をなさなかつたもので、該争点は本件事案の核心をなすものであるからこの点の判示を遺脱した原判決は重要な争点の判断につき理由を付せざるに等しいか然らずんば探証の原則を誤つて認定の論理に違法を侵し結局判決に影響を及ぼす重大な事実について理由不備の違法があつたものとして破毀を免れないものと信ずる。

【参考資料】

第一審判決理由

原告(昭和一四年六月二日生)は昭和二七年六月五日午後五時頃自宅附近の訴外片野郁三方門前において、同人飼育のセパート犬に右脚部を咬みつかれたので、同日被告の診察を受けたところ、狂犬病予防接種を受けることとなり、翌六日より同月一九日迄毎日連続して一四回に亘り北里研究所の製造にかかる人体用狂犬病予防ワクチンの注射を、第一回は被告により、第二回以後は被告方の看護婦により受けたことは当事者間に争がなく咬傷の部位が右脚部のうち腓膓部(いわゆるふくらはぎ)であることは、被告本人尋問の結果(第一回)により成立を認め得る丙第六号証の一、二により明らかである。

そして、<証拠>を総合すれば、当時原告は市川市内の中学校一年に在学していたが、右予防接種完了後の同年六月二六日頃登校中気分が悪くなり、母に伴われて帰宅する途中被告の診察を受けたが、その際体温は三七度八分であつたこと、以来学校を休んで自宅で静養し、被告の診察治療を受けていたが、高熱が続いて時には四〇度六分に達したこともあり、容態は悪化の一路を辿り、食欲は衰え、夜中に室内を這い廻り或は水を恐れる等の症状を呈し、同年七月一七日には口中から泡を出すにいたつて重態となつたので京成病院に入院したこと、六月二六日から七月一四日までの間被告は原告の病気につき結核に基因するもの等の疑を持ち検査を続けたが七月一四日に至つて病名を漿液性脳膜炎か夏期脳炎かいずれにしても脳脊髄膜に関係した病気であると診断したこと、その頃被告は狂犬病予防注射の後麻痺症の疑を持たないわけではなかつたが後麻痺症は短期になおる筈であり、どんどん進行してゆくということはないと思つていたので原告の病気は後麻痺症より重いと考えていたこと、そして入院後二五日原告の病気は伝染病研究所大谷杉士医師より狂犬病予防接種後麻痺症と診断され、次で同月三〇日に東京大学美甘義夫教授により同一に診断され、右診断は現在後麻痺症研究者の集りからも承認されていること、その後原告は後麻痺症に対する治療を受けた結果漸く病状も快方に向い同年九月一日退院することができたこと、やがて再び通学できるようになつたが、発病前に比し学業の成績は著しく落ちたのみならず学友から低脳とからかわれしばしばこれと衝突し、保護者に対し教師から原告のため又他の生徒のため原告は他に転校した方がよかろうと勧告せられ遂に転校せざるを得ないような状態になり、身体は現在回復したが知能上の欠陥はまだ快癒するに至らず、或はその欠陥を将来まで遺すかも知れないということが認められ、証人島本多喜雄の証言によつては右認定を動かすに足りない(以上の事実のうち、原告が六月二六日被告の診察を受け、その際の体温が三七度八分であつたこと、その後四〇度六分に達したこともあつて、重態となり七月一七日京成病院に入院したことについては当事者に争がない。)

以上のとおり、原告は被告の為した狂犬病予防ワクチンの注射によりその副作用たる後麻痺症にかかつたものであると認められるところ、原告は被告が右予防注射を開始したことおよびその施行について並びに後麻痺症発生後の診断と治療について医師として過失があつたと主張するのでこの点について按ずるに、

一 <証拠>を総合すれば、(イ)狂犬病は一旦罹病すれば現代の医学では之が治療法はなく、一〇〇パーセント死亡するに至るのであるが犬に咬まれて放つて置けばこれに罹るというものではなく咬んだ犬が狂犬であるとき、詳言すれば狂犬病の病原体は狂犬の唾液の中にあるのであつて、それは狂犬の臨床的症状が現われる四、五日前に出るのであるからこの頃以後に咬傷を受けると狂犬病の危険があること、従つて犬に咬まれて狂犬病になるパーセンテージは非常に少いこと、(ロ)狂犬病予防注射は狂犬病の潜伏期を利用して被咬傷者に免疫が完成されて完全に防止力を発揮するには注射完了後二週間を要するとされているから、センプルワクチンの注射を咬傷後直ちに開始したとしても免疫が完成するには注射期間一四日間を加えて合計二八日を必要とするものであり、一方狂犬病の潜伏期は咬傷の部位によつて異なるが(顔面の咬傷は四肢の咬傷に比し潜伏期ははるかに短い)最短八日位から最長数年に及ぶものがあつて、統計上三一日ないし八〇日の潜伏期のものが比較的多いといわれているから狂犬に咬まれた疑のある場合には予防注射はできるだけ早くすべきものであること、(ハ)併し一方狂犬病予防ワクチンを接種した場合それが生きた固定毒を使用したパストールワクチンたると殺した病毒(不活化)を使用したセンプルワクチンたるとを問わず低率ではあるが被接種者中の或者に後麻痺の発生することは避けられないところであり(その発生瀕度は一五歳以下の少年は大人の場合に比して遙かに低い)、しかも後麻痺症には軽いものもあるが重いものもあつて、重いものはなおつても知能上の欠陥を将来に遺すものや命まで奪うというものもあるから、狂犬病予防接種後麻痺症は恐ろしい病気であつて、本件事故発生の前年である昭和三六年二月三日発行の日本医事新報(丙第三号証)掲載の美甘教授の論文「狂犬病予防接種後麻痺の諸問題」中においては狂犬病を前門の狼と表現するに対し後麻痺を後門の虎なる表現を用い、「吾々はこれで漸く前門の狼を防いだのであるが後門にはやはり虎が待つていた事態に当面した」と言つておる。そして現在まだ後麻痺症の治療には有効適確な薬ないし治療法がなく最近コーチゾンの使用が有望視せられるようになつたという程度であること、(二)以上のようであるから犬に咬まれた際予防接種を開始するや否やにつき咬んだ犬に狂犬の疑があるかどうかは極めて重要な問題となるが、咬んだ犬に狂犬の疑があるかどうかは(1)咬んだ時から遡つて六ケ月以内に犬に狂犬病予防注射がしてあるかどうか(2)犬が飼犬であるかどうか、飼犬であつても野放しにしてあるかどうか、最近犬の挙動に変調があるかどうか(3)附近に最近に狂犬病の発生を見たかどうか、(この場合大体三キロ以内三ケ月以内を以て一応の標準とすること)を調べることにより判断されること。(ホ)一旦予防接種を開始した以上途中で中止しても、後麻痺が起らないとは断定出来ないと共に途中で中止したことにより続行したならば発生したであろう後麻痺を発生せしめないということもないともいえないから、途中大に狂犬の疑が薄れた時は直ちに注射を中止すべきものとされていることなどの事実が認められ、右認定を動かすに足る証拠はない。以上認定の事実によれば、狂犬病予防注射による後麻痺症の発生は低率ながら避け得られないものであり、一五歳以下の少年も起り得るものであるから、犬に咬傷を受けたからといつて無闇に予防注射をなすべきでなく、飼犬の場合は前記(二)の(1)ないし(3)に掲げたような調査をなし、狂犬たるの疑の有無、濃淡により夫々適当の処置をなすべく、右疑が薄いと判断せられる場合には直ちに予防接種を開始すべきではなく、暫く犬の様子を観察(被害者の家人を通じてなす等の方法により)するの処置に出すべきであり、医師としては以上の注意をなす義務のあることは明らかである。

二 これを本件についてみるに、<証拠>によれば、昭和二七年度は六月頃迄の間に千葉県においては野田市および千葉市において各一名の狂犬病の発生をみ、東京都において江戸川区小松川に二名の狂犬病の発生をみ(狂犬は野田市一頭、千葉市三頭、小松川二頭発生)、千葉県においては同年四月一一日県告示をもつて一日より九月三日迄千葉県一円における犬の移動、移出入及集合施設等を禁止せられ、同年一〇月三〇日には千葉県衛生部長より県内各保健所長に宛て狂病犬予防特別対策実施の指示が出た程であつたこと、訴外片野郁三飼育の犬が原告に咬傷を与えたときの模様は、原告が片野方の前を通りかかつたところ近所の子供が泣いているのに出合つたので「どうしたのだ」と聞いていたところへ突然片野方邸内から飛び出して来て原告を咬んだものであることなどが認められるから、一応狂犬ではないかと疑い得ないこともないが、一方<証拠>を総合すれば、右訴外片野の飼育する犬は前年の一二月中にも近所の女中の腕に咬みついたことがあり、その際獣医の診察を受けたところ、狂犬ではないことが判明したが、爾来約一坪の小屋に金網を張つて入れてあり運動等をさせるとき以外は庭に出さないで飼育して居り、本件事故を起こした際は庭において運動中、片野の妻の隙を伺い邸外に飛び出したものであり、昭和二七年一月一八日に予防注射を施行済であつたこと、原告に咬傷を与えた六月五日に訴外片野郁三の妻片野ミヨシは原告の母豊島マサコに対し犬には予防注射がしてあるから狂犬の心配は多分ないと思う旨を伝えたこと、被告は犬の予防注射済みの証明書を呈示されなかつたけれど、六月五日原告を診察した際原告の母より、また翌六月六日には片野の妻ミヨシよりそれぞれ予防注射済みなので多分狂犬でない旨を伝えられたこと、被告家と訴外片野郁三方とは近隣であるばかりでなく、前記のように片野方の近所の女中がこの犬に咬まれた際にも被告は被害者を診察してこれに狂犬病の予防注射を為し、この犬に対しては予備知識を有していた筈であること、市川市においては昭和二七年中狂犬の発生はなかつたこと等の事実が認められ被告本人の尋問の結果中右認定に反する部分は措信し難く他に認定を動かすに足る証拠はないから、被告が原告に対する予防注射を開始した六月六日当時の加害犬に関する資料によれば、この犬が狂犬であるとの疑は殆どなかつたとみるのが常識的であり、かかる場合には狂犬を疑わしめるに足るような新資料の得られる迄年少者なる原告に対してではあつても、暫く予防注射を差控えるべきである。そうすれば前記一の(イ)に記載した四、五日の期間は無事に過ぎ結局原告に予防注射をせずにすますことが出来た筈である。被告は犬が過去半年内に予防注射をしたことの確証が得らない限り人体に狂犬病発生の危険あるものとして予防注射をなすべきであると主張するが、本件の場合予防注射済証の呈示こそなかつたが、近隣の犬であり前年の暮に人を咬んだ時にも狂犬でなかつたことを被告は十分承知の筈であるし、予防注射済みなることの報告を口頭で受けているのであるから、一応予防注射済なることの証明十分というべきであるが、それでも確証を得られないというならば原告の家人に証明書を要する意味を話してこれを飼主からとつてこさすべきであるのにこのような努力を為したことを認めるに足る証拠はなく、「この点に関する被告本人尋問の結果(第一回)は措信しない)、却つて証人甲田和子の証言原告法定代理人豊島畯治本人尋問の結果(第一、三回)および被告本人尋問の結果(第二回)によれば、被告は原告に予防注射をする前にも犬に咬まれた自分の子供を含めて二、三名の患者に対し、咬んだ犬の予防注射の有無に拘らず直ちに予防注射を実施している事実が認められ右事実と前記認定に係る被告が原告の病気は後麻痺症より重いと考えていた事実とを総合すれば、被告は当時狂犬病の発病を恐れるの余り、予防注射による後麻痺症の危険については殆ど考慮を払つていなかつたことが窺えるのであつて、原告に対しても先ず予防注射をすればよいとの安易な考えのもとに実施したことが認められる。そして、本件加害犬に関しては前記の如く本件予防注射開始当時既に狂犬ではないであろうとの推測を為し得る程度の資料があり、且つ結局後に狂犬でないことが証明せられたのであるから、被告は医師としての注意義務を怠つて全く無用の予防注射を開始し完了したものというべく、これによつて後麻痺症が原告に発生したのであるから、仮に予防注射実施中において、または発生した後麻痺症の診断および治療上において原告主張のような過失がなかつたとしても被告は後麻痺症の発生につき医師としての過失の責を免がれることはできない。<以下省略>

第二審判決理由

当裁判所の判断は、次の点を附加するほか、原判決の理由に説明するところと同じであるから(但し成立に争のない乙第一号証とあるのを、原審における相被告片野郁三本人の供述により原本の存在および成立が認められる甲第九号証と訂正する)これを引用する。

狂犬病の予防接種は、その副作用として後麻痺症の発生する危険を伴うものでありこれに対する配慮はゆるがせにすることができないものであるから、苟も医師が狂犬病の予防接種を施行するに際しては、この点を慎重に考慮し、咬傷を与えた犬が狂犬の疑のあるものと判断すべき事情のある場合でない限り、安易にその施行を開始又は継続することはこれを避けなければならない義務があるものと認めるのを相当とすることは、原判決の説明するとおりである。しかるに原判決挙示の証拠によると、本件において被控訴人に咬傷を与えた犬は、当時原判決の認定したような事情があつて狂犬の疑は殆んどなかつたものと認められ、従つてその疑あるものと判断すべき事情にはなかつたものというべきであり、控訴人も医師としてこれを知り又は少くとも知り得べき事情にあつたものと認められるのにかかわらず、控訴人は前記予防接種の副作用に対する配慮に慎重でなかつた結果、被控訴人に対し安易に右接種を施行すべきものとしその施行を開始し、そのまま右接種剤の一般用例による一日一回、十四日間にわたる接種の施行を継続完了したものであることおよびこれがため被控訴人に右予防接種の副作用症状が現われ、他の専門医により後麻痺症の診断を受けるに至つたものであることを認めるに足りるものである。以上によると、控訴人は前記狂犬病の予防接種を施行するに際して遵守すべき医師としての注意義務を欠いたものであることを免れず、従つてその接種施行により発生した後麻痺症のため被控訴人が被つた治療その他の財産上および精神上の損害についてその損害についてその賠償責任を免れ得ないというべきである。<以下省略>

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